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自己所有権と自殺についてビジネス書を読みつつ考えてみた

2014年8月21日 10:09 / カテゴリ:[ ]


とあるビジネス書を読んでいたら、リバタリアニズムと自殺の適法性の関係について紹介されていました。それを読んでなんとなく思ったことをメモしておきます。あまり突き詰めて考えておらず、ビジネス書を読みながら思いついたことを述べているだけなので、ぶっちゃけ大した内容ではありません。

リバタリアンは、「各人は各人の身体の所有者である」という自己所有権テーゼを承認している論者がほとんどだと思います。というか、リバタリアンでこれを否定している人を見たことがないので、おそらく自己所有権テーゼの承認はリバタリアンの基本的な特徴だと見てよいかと思います。

私はリバタリアンに親近感を抱いているので、自己所有権テーゼを肯定するのにやぶさかでありません。むしろ積極的にこのテーゼを擁護したいところです。普通の人も、自己所有権テーゼについては単独だと否定し難いのではないかと推測します。

しかし、この自己所有権テーゼの妥当性が疑われる文脈もあります。それは自殺の適法性を考える文脈です。

私が考えるに、自己所有権を認めるのであれば自殺は適法になるはずです。自己の身体が処分対象であるならば、自己の生命の処分もまた可能であるのが自然だからです(ただし、これには反論がありえます。身体処分と生命処分が本質的に異なると考えることもできるからです。いくらでも突っ込んだ議論をする余地があります。面倒なので、この点については別の機会に考えたいと思います)。

自己所有権テーゼから自殺の適法性が論理的に導出できるのだとすれば、その対偶である「自殺の適法性を否定すれば自己所有権テーゼが否定される」という関係も同時に導き出されます。

そして直感と合致している自己所有権テーゼよりも、自殺の適法性を否定するほうが一見して容易であるように思えます。

したがって、自己所有権テーゼが自殺の適法性を含意すると仮定すれば、この論点はリバタリアンを論駁するための格好の戦場になりえます。

もっとも、自殺の適法性を巡る論点から自己所有権テーゼを否定してリバタリアンにダメージを与えるという戦略は、実際のところ見た目以上に困難ではないかと思います。

それというのも、自殺の適法性を否定する議論は往々にして「自己所有権テーゼの否定」を暗黙裡に前提しているからです。

たとえば、自殺の適法性、すなわち「自ら死を選ぶ権利」を認めると、社会に自殺者が蔓延して国力が低下するという議論があります。

しかしこれは自己所有権ではなく社会的利益が優越されることを前提しています。誰かへの直接的な危害がないのに所有権が制限されるのですから、実質的には自己所有権の否定です。つまり最初から「身体に対しては社会的利益が優先される」と仮定した議論なのです。

これから証明するべき事柄を前提していては、リバタリアンへの反論になりません。結論を仮定するのでは、単なるトートロジーだからです。

長くなったので、次回に続きます。

【雑文】法学勉強ブログ

2014年8月20日 08:51 / カテゴリ:[ 生活 ]


ふと思ったのですが、法学勉強ブログでも作ってみたら面白いかもしれません。

基本書の記述を自分なりに噛み砕いてメモしたり、具体例を色々と工夫してみたりすれば、いくらでも記事が書けそうな気がします。文字を打ち込むのが面倒ではありますけどね。でもそれは誰もが感じていることですし、どんなテーマであっても当然発生する問題なので、仕方がないことです。

むしろあまり悩まずに質の高い記事をかけるのが大きいですね。法学関係の知識ならば、あまりネット上に詳しいことは出てきませんし、それをまとめておけば他人の役にもたつと思います。

それに絶版になった本を利用すれば、コンテンツの重複もなさそうです。もちろんコピペはアウトですが、詳細や自分が解釈した内容の方を記せば問題ありません。解釈内容は私の頭を通じて形成されたオリジナルコンテンツですからね。

ちょうど手元に星野英一先生の民法概論の第二巻が存在しています。昔は民法もきっちりと勉強していたのですが、ここ6年ほどは完全に民法から離れてしまっており、内容をほとんど覚えていません。

そこで、いい機会ですしこの本を利用してブログを更新していこうと考えています。

問題としては星野英一先生の本はかなり古いので、内容もアップデートされていないことですね。絶版になっているわけですし、最新の状況には全く対応できていません。それはしかたがないことですが、細かく時代に応じた改正がなされるようになってきた昨今、特に移り変わりが激しい民法分野では致命的な気もします。

これをどう捉えるかですが、幸いにも第二巻は物権法です。物権法は基本的なところに変更がなかったはずです。担保物権については時代の最先端が要求されますけどね。そこは今回関係ないので。

しかしそれにしても、今少しだけ読んでみましたが、民法ってやっぱり刑法とは違いますね。いや私法と公法ですし、罪刑法定主義がないわけですし、違って当然なのですが。ずっと刑法ばかりやってきたので、久しぶりに民法の基本書を開いてみたら、雰囲気の違いに面食らってしまいました。学部生時代は色々やってたはずなんだけどな~。

【日本語】ラノベ時代の読書と日本語力

2014年8月18日 02:17 / カテゴリ:[ メモ ]


「はなし」という言葉について、これを名詞として使うときの表記は「話」で送り仮名はいりません。他方、動詞「話す」の活用形として使用するときの表記は「話し」です。

この二つは明らかに区別して用いられるべきであり、事実きちんとした教育を受けている人なら皆そのように使用しています。この場合の「きちんとした教育」とは、義務教育のことです。この区別は小学生の国語の時間に習うわけですし、理論的なことがわからなくても読書していれば両者の区別は自然と身につきます。

ところがネット小説の作者は、往々にしてこれらの区別ができていません。これは単なる誤変換ではなく、教養の欠如と捉えるべきでしょう。なぜなら、誤変換として捉えるにはあまりにも広く分布している誤りだからからです。

言い換えれば、ネット小説の作者の多くは、自らの誤りに気づかないほど読書量が不足しているのです。一定の読書経験のある人間ならば、このような単純な区別は意識せずとも可能です。誤用するには違和感が大きすぎます。

ただし、ネット小説の作者の場合は、読んでいるものが問題である可能性もあります。誤字脱字や表現の乱れが多いインターネット上の文章ばかりを読みあさっているため、適切な日本語運用能力を育てられなかった可能性です。

もっとも、この可能性は低いと言えます。なぜなら、最低限の読書習慣がある人間でなければ、インターネットで小説を読もうとは思わないからです。小説ではなく2ちゃんねるに代表される掲示板、その他文章校正が全く意識されていないメディアの影響もあるかもしれません。しかしそれは微々たるものでしょう。読書習慣のない人間があえてこうしたメディアに触れるとも思えないからです。

あるいはツイッターのようなSNSやLineなどのスマートフォンアプリ、メールなどの割合が大きいのかもしれません。それならば理解できます。こうしたメディアは知的レベルの低い人間ほど依存的に利用するからです。

いずれにせよ、読書習慣がないか読んでいる文章が校正もきちんとされていない不正確なものばかりだから、自らの言語使用に違和感を覚えないのでしょう。本気で日本の将来を憂いてしまいます。

この状況を改善するには、日本人の読書量を増やしていくことですね。特に若年層に正確な日本語が用いられた文章を読ませることが重要になります。ラノベはあえて日本語を崩しているところがあるので難しいですが、そういう不条理系ハイテンションギャグ作品ではなく、地の文章がまともなものを読んでほしいものです。

その意味では、「小説家になろう」から書籍化された作品は編集者のレベルが水準以下で日本語として不適切なものも多いので、きちんと編集者が仕事をしているレーベルから出た作品を読むべきですね。

ラノベというジャンルが悪いのではなく、個別の作家の文章力と編集者の力量不足が悪いのです。基本的な文章素養のある作家の作品が読まれる状況になるのを期待します。

カゴメのトマトジュースが売上激減!その理由と対策とは?

2014年8月17日 10:23 / カテゴリ:[ グルメ ]


トマトジュースといえばカゴメの代表的な商品ですが、その売上が下がっているとニュースになっていました。

理由として考えられるのは消費税の増税ですが、それだけではないようです。

昨今の野菜値上がりとも関係するトマト原価の高騰も背景にあるのだとか。燃料費の高騰も拍車をかけているのかもしれません。

さらにトマトダイエットのブームで一時的に消費が伸びていた反動で、野菜ジュースへの需要が落ちているのだそうです。

たしかに健康志向の人は、低速ジューサーなどで手作りジュースにシフトしている印象です。あまりトマトジュースを飲んでいる人はみかけませんよね。

カゴメは国外輸出や高級品のラインナップで巻き返しを図るようですが、輸出に関しては明らかに先細りしそうです。

というのも日本は内需国ですし、他の国がトマトジュースに対して旺盛な購買意欲を持つとも考えにくいんですよね。野菜なら地産地消でしょうし。

そもそも他国からの製品はコストも掛かりますし、野菜なら現地で生産しているのだから、新鮮なものを購入したほうが安くて美味しいと考えるのではないでしょうか。

日本からの輸入品はどうしても高価になりますし、高級品として位置づけられたら先進国以外への輸出は伸びないと思うんですよね。発展途上国の経済状況が好転して、しかも健康志向になるという高いハードルを超えなければ、トマトジュースは売れないと思うのですよ。健康志向の国民が増えるかどうかは、その国の教育状況にも依存するわけですし。

ニュース記事を読んでいると、東南アジアへの輸出を増やしたいのでしょうけど、果たしてこうした問題を解決する見込みがあるほど魅力的な市場なのかどうか、私にはわかりません。

ただまあ、カゴメも何らかのテコ入れを行うでしょうし、トマトジュースの味が国外で日本以上に受け入れられる可能性もあります。それに飲料事業の商品ラインナップはトマトジュースだけじゃないはずです。途上国の物価に合わせて、一人あたりの利益は国内市場より減ってもトータルで利益が出せるのでしょうし、物によっては充分に売れる見込があるのかもしれません。

カゴメの今後の展開に注目ですね。

「偉い」を人に対する形容詞として用いることの不適切さ

2014年8月16日 11:44 / カテゴリ:[ 社会 ]


前回の記事の続きです。

前回は「有給休暇問題に見る日本企業の差別主義」などと大層なタイトルで記事を書きましたが、関連するテーマとして「偉い」という言葉の用いられ方について考察したいと思います。

そもそも「偉い」という言葉は、人間が平等である以上、使うべきでない言葉です。なぜなら、これは価値的な上下関係を含意しているからです。前回記事でも書いたように契約は両当事者の価値的平等があってはじめて成り立つので、契約当事者の一方が他方より「偉い」とは言えないのですから、「偉い」における価値の上下関係は法的な意味を持たないのです。ということは、労働者と雇用主の関係における「偉い」「偉くない」は、法的価値ではなく、単なる事実上の力関係の差異にすぎないのです。事実上の差異であるならば、「強い」「弱い」のような価値的に中立な言葉を使うべきであって、価値的な上下関係を含意する「偉い」という言葉を使うべきではありません。

仮に使うとしても、それは道徳的良し悪しのような価値的上下関係を使っても問題ない、「行為」に対する評価という文脈で用いるべきでしょう。「人」に対して「偉い」という言葉を使うべきではありません。なぜなら、「人」を価値的に序列化して上下関係をつけるのは、人間がみな価値的に平等であるという普遍的な原理に反しているからです。

日本ではしばしば「偉い」という言葉を行為ではなく人に対して用います。しかし、それは不適切です。そういう人は、「自分は適切な日本語運用能力がないか、あるいは差別主義者である」というメッセージを外部に発信しているのです。

そう思わない日本人が多いならば、それもまた問題です。日本人の多くが無意識的に差別主義者であることを暴露してしまっているからです。

おそらくこのような状況は、会社における奴隷の再生産に慣れきっているからでしょう。日本企業が個々の社員に奴隷関係を正当なものとして強制しているのですから、それに慣れた日本人には、「偉い」という言葉に秘められた差別主義的含意に違和感を覚えることなどできないでしょう。

外国人による日本企業の体質に関するこのような指摘は、上記のような日本人に染み付いた不適切な価値観を露呈させる助けになります。

思考停止した日本至上主義者は、外国人の率直な指摘に対して憤慨するかもしれません。「郷に入れば郷に従え」「日本企業の慣習を尊重しろ」と言うかもしれません。

しかしもはや問題は、「現地のルールに従うべきか否か」ではなくなっているのです。ここで問題になっているのは、「国際的に承認された平等という価値に抵触するルールに従うべきか否か」なのです。そしてこれは明らかに否でしょう。上記のように隠れた前提を踏まえれば、もはや議論の余地はありません。

この結論を否定するのであれば、一連の議論を否定する必要があります。それをせずに「郷に入れば郷に従え」などと批判するのは、自分の知的レベルを貶める行為です。

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